航空連沿革


■沿革 : 

航空連の生い立ち(歴史)について簡単に紹介いたします


   日本の民間航空の再開と労働組合の結成

 1951年10月25日に日本航空がノースウエスト航空に運航を委託した形で営業を開始しました。
 1952年7月に航空法が公布・施行され7月に日本航空整備、日東航空、9月に富士航空、12月に極東航空、日本ヘリコプター、1953年8月に北日本航空、11月東亜航空が設立されました。さらに、12月に政府出資による日本航空が発足しました。航空労働組合の結成は、1951年11月に日本航空にて全職種を組織して設立されました。1953年7月に日本航空整備労組、1954年9月に日本航空労組から乗員組合が分離独立、1956年1月に日本ヘリコプター労組と乗員組合結成、1957年12月に極東航空と日本ヘリコプターが合併、全日空を設立、1958年2月全日空労組、4月全日空乗員組合結成へと続きました。


1960年から62年の闘いで今日の労働条件の基礎が築かれた

 1960年から62年にかけて、日本航空にて労働条件改善の運動が本格的に取り組まれました。 1960年から61年にかけ日本航空乗員組合は外人乗員との賃金格差(機長で外人40万円/月、日本人10万円/月)是正と、ジェット機導入に伴う労働条件改善を求め、争議権を確立して闘いました。60年11月と61年5月中央労働委員会の斡旋を経て乗務手当て60時間保障制度と、勤務条件(離着陸回数を基準にした勤務、乗務時間をカウントする)の確立を実現させました。

 乗員組合の運動に影響を受け、日本航空労組は1961年から62年にかけ争議権を確立し運動を展開しました。62年4月11日に民間航空で初めての6時間ストライキを行う等の闘いを通じ、賃金の引き上げ、労働時間短縮、年次有給休暇20日、メーデー休日、変則勤務手当ての新設等、大幅な労働条件の改善を実現させました。日本航空の労働条件改善に影響を受けて、全日空乗員組合は1961年から62年に、日本航空の水準を目標に争議権を確立して運動を展開し、62年中央労働委員会の斡旋を経て乗務手当て65時間保障制度を確立させました。 全日空乗員組合の労働条件改善と、日本航空労組の労働条件改善の影響を受け、全日空労組は賃金の引き上げと労働時間の短縮を実現しました。


航空の産別組織・民航労連の結成(1962年から63年)

 日本航空の闘い前進を受け、1962年5月に日本航空労組、日本航空整備労組、全日空労組の呼びかけで情報交換会が開催され、日本航空乗員組合、全日空乗員組合、伊藤忠航空整備労組、BOAC労組、ノースウエスト航空労組、藤田航空労組が参加しまた。席上全日空労組から「会議を開いて情報交換を行うだけにとどまらず、1つの組織を持つべきである」との提案があり、参加組合代表から賛成を得ました。その後、9月25日に「民間航空労組連絡会」準備会が発足しました。12月には運輸大臣が3月の日本航空労組のストライキを契機に民間航空を公益事業(争議の事前予告義務を課す)に指定すると国会で発言が為され、政府の航空労働者への圧力が増していきました。

 1963年3月22日に9組合(伊藤忠航空整備労組、北日本航空労組、全日空労組、日東航空労組、日本航空乗員組合、日本航空労組、日本航空整備労組、ノースウエスト航空労組、藤田航空労組)の連名で、「組合活動に規制を加えんとする公益事業指定、官僚統制を強化しようとする航空法改正、民間航空企業再編成等から,労働者へのしわ寄せが予想される現状」にあり「民間航空労組連絡会を結成し労働条件向上のためともに手を取って進む」旨の民間虚空労組連絡会・民航労連結成の声明を出しました。翌年の64年9月に規約などが確認され民航労連の第1期がスタートしました。


航空経営の役員解雇と分裂攻撃

 1963年に日本航空へ日経連から2名の役員が派遣され、労務対策が強化されていきました。
 1964年11月日本航空乗員組合は、会社が外人乗員を教官業務に限定していた協約を無視路線業務へ拡大を行う計画等の撤回を求め指名ストライキを決行しました。
 1965年春闘で4月27日全日空労組はストライキを決行しました。翌日の4月28日、日本航空は64年11月のストライキを指導した責任者として日本航空乗員組合3役と教育宣伝部長の4名、全日空は4月27日のストライキを指導した責任者として3役3名に解雇通知を行い、航空労働者は航空経営から7名の役員の解雇攻撃を受けました。さらに、1965年5月31日日本航空の機長グループが脱退声明を発表以降、日本航空内の全ての組合は分裂攻撃を受け、航空労働者の闘いは困難を強いられました。


解雇撤回と分裂攻撃への反撃

 1966年2月全日空労組3役の解雇撤回、日本航空乗員組合解雇撤回裁判闘争の連続的勝利判決、全日空労組、乗員組合の日本航空を上回る労働条件の獲得、日本航空内の職場からの闘いの前進の中から、1973年7月日本航空乗員組合役員4名の解雇撤回を勝ち取り、11月には日本航空乗員組合と、日本航空運航乗務員組合の歴史的な統一が実現しました。


「航空5者」から航空労組連絡会へ

 1974年、労働条件の国際基準を政府、使用者、労働者代表で決めるILOの民間航空準備会への日本側労働者代表選出のとりくみを通じて、民航労連・全日空乗員組合・東亜国内航空乗員組合・日本航空乗員組合・日本航空客乗組合の1団体・4組合が「航空五者」を発足しました。1980年「航空五者」を「80春闘航空労組連絡会」へ発展させ、さらに恒常的運動体として、「航空労組連絡会」に名称を変更しまた。 活動面では「航空五者」時代の当初、3大闘争の情報交換と日程調整から始まりましたが、1979年の航空運賃値上げを口実にした航空労働者の賃金・労働条件攻撃に対する反撃として、航空政策活動を強化し、政府・マスコミヘのアピール、論説委員との懇談等の対外的な取り組みを行いました。1982年、航空運賃値上げ反対のとりくみ、航空政策セミナーを民航労連主催から航空連主催へ発展させ、84年には政策提言を政府に提出、また総務庁の航空行政勧告に基づいた攻撃に対しても機敏に反撃してきました。1985年9月、航空労組連絡会を全ての航空労働者の産別組繊としての確立を図るために「会則の確立・代表者の設置・財政の確立」の方針が承認され、9月28日に第1回定例総会開催されました。そして、10年間の運動を成果に立ち1995年2月10日、日本民間航空労働組合連合会は発展的に解消し航空労組連絡会に統一されました。

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